真弘が中学生の時の写真です。
似てるでしょ?

・・・誰にって・・
西武ライオンズの松坂投手に・・・。
(あはっ・・)

この子が障害児じゃなかったら、笑っていいともの、身内自慢コンテストに出て、全員が【その通り】の札を上げて、高級ホテルのディナーを食べたりなんかしちゃってましたよ・・・
きっと・・・。

まぁ・・ばかな母親の独り言と思ってかんべんして下さいな・・・。
小学校に上がる少し前の1月・・・ それまでバタバタと家中を走り回っていた真弘でしたが、突然静かになって何気なく部屋を覗くと、こたつの側で寝ていたので、布団を掛けてやろうとしたその時、私は心臓が止まりそうになった。

きゃーぁっ!
まさひろーっ!!


目は白目で、唇は真紫・・・私はすぐに救急車を呼んだ。

原因がはっきり分からなかったので、福岡大学病院に紹介状を書いてもらって、検査する事になりました。

脳波の検査で、けいれん波が出ていたので、てんかんと診断されました。

テグレトールという、抗痙攣剤を毎日、朝・晩飲ませて5年間出なければ大丈夫でしょう・・・と、言われた丁度5年目・・・真弘が小学校5年生の後半頃・・・

それまでも、発作は度々起こっていましたが、ほとんどが、家で起こる事が多く、学校ではそれまで一度も出た事がなかったのです。

ところが、5年の3学期頃だったと思いますが、始めて学校で発作が出てしまいました。
私はその頃には、真弘の発作にはもう、慣れっこになっていましたから、学校から連絡を受けても、特に慌てることなく、保健室で眠っている真弘が目を覚ましてから、連れて帰りました。

でも・・・その事が、学校では結構問題になっていたようで・・・1週間程経ったある日、私は担任の先生から呼び出しを受け、学校に出向きました。
学校へ行くと、すぐに会議室に通されました。

教頭 「あの・・真弘君の事ですが、この間学校で発作が出ましたが、その後いかがですか?」

私 「・・はぁ・・特に変わった様子はありませんが・・・まぁ、いつもの事なので、もう慣れっこになりました。あはは・・・。」

教頭 「あのぅ・・実は・・大変申し上げにくい事なんですが・・。」

私 「はぃ?」

教頭 「今後、また、あのような事態が発生した時、学校としては責任が取れませんで・・・、それでお母さんに誓約書を書いて頂きたいんです・・・。」

私 「あのぅ・・どうゆう意味ですか・・?」

教頭 「もし、学校で発作が出て、真弘君に万が一の事があっても、学校に一切責任を追及しない・・と、いうことです。」

教頭 「・・・あっ・・いや・・お母さんに限ってそんな事はされないと思ってはいますが、授業中は、担任と、副担と、二人付いていても、休み時間やそれ以外の時間、教師が一日中真弘君に付いている事は不可能ですので、その時に発作が出て何かあった時に、一方的に学校の責任にされても困りますので・・・。」

私 「・・・。(ムッカーッ!!)」

教頭 「・・あくまでも書類上のことですので・・・」

私 「分かりました!書けと言われるなら100枚でも、1000枚でも書きますよ!!この先、学校で発作が出て、もし真弘が死んでも、それは学校の責任ではありませんから・・・!!教育委員会の判定に逆らって、特殊に入学させた私の責任ですっ!!!」

そう言って、私は目の前の誓約書にサインしたのです。

家に帰る道、涙が止まらなくなった。
悔しくて・・悔しくて・・・。


なんだよぉ!それじゃぁ、何のための特殊なんだよぉ!!障害児だって、いろんな障害児がいる事くらい知っとけよぉ!!そんなんだったら、特殊なんかやめっちまえーっ!!!
ゆたか学園での生活もそれなりに過ごし、気が付けば年長になっていた。
この頃、お母さん達の園の出入りが多く、何となく慌ただしくなってきた。

それと言うのも、卒園後の進路相談が始まったからです。

選択肢はふたつ・・・。

養護学校の小学部か、校区の小学校か・・・。

私は、校区の小学校にやろうなんて事は、この頃は全く頭にありませんでした。
ところが、ある日真弘を迎えに行って帰って来ると、玄関の前に一人の男性が立っていました。

その男性は、校区の小学校の特殊学級の担任らしく、先生が言うには・・・

先生 「真弘君は、卒園後の進路はもう決めてますか? ぜひ、校区の学校へ通わせて下さい。例え障害児でも、校区の学校へ行く権利はあるのですから、それを主張しなくてはいけませんよ!真弘君のためにも・・・」

その先生は玄関の前で40分ほど、熱く語って帰って行った。

それからも、何度も何度もやって来て、その度に熱く語って帰るのでした。

私は、その先生の熱心さに負け、真弘を特殊学級に入学させようと決心しました。

ところが、とても簡単に考えていたら、大変だったのはここからで・・・校区の小学校に入学を希望する場合は、教育委員会と面談をしなければいけないと言うのです。

私は決められた日に、真弘を連れて行きました。
その日は、真弘に簡単な作業をさせて、知能指数がどのくらいかを調べます。

物の名前を言わせたり、糸通しをさせたり・・・

自閉症とは、とても厄介で、自分が興味のないことは出来ることでもしないんです。

いろんな道具を目の前に置かれて、真弘はもう、自分の世界に入ってしまいました。
自分が好きなように遊びたいのです。

当然、言われたことはしないので、そこで、【できない】の判定がついてしまいます。

その日のうちに養護を薦められ、私が渋っていると、暫く日にちを空けて、もう一度面談する事になりました。

2度目の面談で・・・

教委 「お母さんのご希望は、特殊ということですが、先日の判定の結果では一応養護の判定がでておりまして・・・。」

私 「わかってます。でも、私としては特殊に・・・。下の妹も4年後には小学生ですから、できれば兄妹、同じ所に通わせたいし・・・」

教委 「お気持ちは、わかりますが、そんな理由で進路を決めるのはどうでしょう・・・?そんな見かけにこだわらず、もっと真弘くんのことを考えて・・・」


ぷっつん!!

その瞬間、私の体中の神経が音をたてて切れた・・・!

私 「じゃあ!あなたに真弘のことが、どのくらいお分かりなんですか!?今始めてこの子を見たのに・・・」

教委 「・・いえ・・私はただ、判定に基づいて・・・」

私 「判定?!たった3・40分ちょこちょこっと作業させて、それだけでこの子の全てが決定してしまうわけですね・・・?言われた事をしなかったからと言って、それで全て【出来ない】の判定になってしまうんですね?たった3・40分で、この子の進路を決める事の方が無理じゃないですかぁ?!」

教委 「・・・。」

私 「この子の事をもっと知ろうと思ったら、1ヶ月位園に通って、観察するべきでしょう!!」

教委 「市内に障害児がどのくらいいると思うんですか?」

私 「・・・だったら!親の判断に任せるべきでしょう!?私は6年間この子を見ています!」

教委 「わかりました!追って連絡しますので!」

その後教育委員会からは何の連絡もなく、小学校の入学案内も届かず・・1ヶ月が経ち・・2ヶ月が経ち・・やっと、入学案内が届いたのは、小学校の入学式の1週間前だった。

・・・ところが・・

やっとの思いで、入学したのに、あの熱血先生は他の学校に異動になっていた。


なんなんだよぉ~!
自分が誘ったくせに~っ!
とにかく、こうゆう子ですから、お腹が痛かったり、頭が痛かったりしても、自分から表現できないので、健康面には特に気を付けるようにしていました・・・が、歯のことまでは気が行き届かず、気が付いたら虫歯ができていました。

さて、問題は歯医者です。

自閉症児特有の多動があり、例え1分でもじっとしていることが苦痛な真弘・・

でも、できた虫歯を放っておく訳にはいかず、とりあえず、家から一番近くの歯医者に連れて行きました。

予約をしていたにもかかわらず・・しかも患者もうちだけなのに30分も待たされた挙句に、やっと診察室に呼ばれました。

私 「すみません、この子障害児で全くわからないので、私も側につかせて下さい。」

そう言って一緒に診察室へ入り、隅っこの邪魔にならない所で、じっと見ていると、やはり真弘は椅子の上で足をばたばた動かしたり・・首を左右に振ったりと、じっとしてはいませんでした。

そんな真弘に優しい声を掛けるどころか、このオヤジときたら・・・

医者 「動かんと!じっとしとかんと危ないやろ!!」

・・・と、怒鳴ったのです。

(はーっ!?障害児やけん、なんもわからんって、さっきゆったろうがぁ!!このオヤジだきゃぁ・・ぼてくりこかしたろかぁっ!!!)【博多弁】
訳=“えっ!?障害児だから何もわかりませんからと、先程申し上げたでしょ!!このおじ様ときたら・・・殴って、蹴り上げて、ぼこぼこにしてあげましょうか!!!”

医者 「ちょっと!しっかり押えとかんか!」

と、看護婦にまであたり始め・・真弘の口を必死に見ながら、なんと・・・

 ええいっ!!くそぉっ!!

・・・と、あろうことか、真弘をくそくそよばわりしたのです。

その時・・

ぷっつん・・・
私の体中の神経が音をたてて切れました。

私 「もう結構ですっ!こちらの乏しい設備と、あなたの未熟な技術では、うちの子の虫歯は治せないようなので!!! 人の虫歯を治す前に、自分の性格直したらどうですかぁ!?」

そう言って真弘を抱きかかえて、出て行きました。

その後、同じ施設に通うお母さん達から教えてもらって、福岡歯科大の障害者歯科に20年近く通っている。

壁の穴開き事件から暫くして、真弘が私の所へ来て、

マサ 「んーんー!(おしっこ!)」

と、言って私の腕を引っ張るので、トイレに連れて行きました。
我が家のトイレは洋式です。
便器の前で、ズボンをおろしてやると、気持ち良さそうにおしっこをし始めました。

ところが、おしっこをしている最中に、真弘のおしりがピクピクっと、動いたのです。

(ん?)

と、その時いきなり力み始めました。


えーっ!?まさか・・・!

今、向きを変えて便器に座らせれば、私はたちまちおしっこまみれ・・・。
正に、究極の選択・・・。

そうこうしているうちに、う○ちが顔を覗かせ始めました・・・

私 「えーっ!ちょっ・・ちょっと待って!」

・・とは言っても、う○ちが待ってくれるはずもなく、ようしゃなくツルツルと出始めました。


あーっ!!

「・・・・・。(汗)」

とっさに、手で受け止めてしまったのです・・・。

私 「・・・手で握ろうが・・つぶそうが・・可愛い我が子のう○ちだもん・・・あはっ・・あはははは・・・(泣)まぁ・・比較的硬めで良かったよ・・・。」


・・・と、その時一つの疑問がわいたのでした。
こんな時、どう教えたらいいんだろう・・・?

男の人って、同時にもよおした時、どうするんだろう・・・?

主人が帰って来たら早速聞いてみらんと!

主人 「ただいま~!」

私 「ねえねえ!男の人ってう○こと、おしっこ同時にしたくなったらどうすると?」

主人 「・・・・。あのさ・・」

私 「うんうん(ワクワク)」

主人 「まず・・お帰りなさい・・が先やろ?」

私 「おかえり!・・で?」

主人 「そりゃぁ・・我慢できん方が先たい・・・。」

私 「・・・・。」

あまりにも面白くない回答に、ガッカリした・・・。
二人目を妊娠中の私にとって、福祉バスに1時間近く揺られての通園はとても辛いものでした。
でも、そんな私の思いもよそに真弘は大好きなバスに1時間も乗れて大はしゃぎ。

私 「ほら着いたよ。」

マサ 「んーんー!(まだ乗りたい!)」

私 「だめ!はよ降りんと先生が待っとるけん・・・。」

マサ 「んーんー!!(いやだー!)」

私 「じゃあお母さん一人で行くけんね」

マサ 「んーんー!!!(お母さん・・まってー!!)」

そんなやり取りが、半年間続いてぴよぴよ園を卒園した。

その後、ゆたか学園という、障害児のための幼稚園のような施設に通うようになった。
そんなある日・・・

主人 「ただいま~。ほら、これ何と思う?」

私 「何?」

主人 「ハンモック!真弘が喜ぶかなぁと思って・・・。」

私 「・・・。」

早速、子供部屋に吊り下げた。
確かに真弘は喜んだ。

2週間後・・・

主人 「ただいま~!ほらっ・・・」

私 「ぅわっ!何その箱・・・」

主人 「へへぇ~、室内用ジャングルジム!真弘が喜ぶかなぁって思って・・」

私 「・・・。」

早速、子供部屋で組み立てた。
確かに、真弘は喜んだ。

1ヶ月後・・・

主人 「ただいま~!ほらっ・・・」

私 「えっ・・・」
(日に日に箱が大きくなっっとる・・・)

主人 「室内用滑り台!真弘が喜ぶかなぁって思って・・」

私 「・・・。」

早速、子供部屋に置いた。
真弘は、今までで一番喜んだ。

・・・でも、そうとう、うっとおしい部屋になった・・・

滑り台が一番お気に入りの真弘は、たった3段しかない階段を上っては滑り、昇っては滑り・・・を何度も繰り返していた。

そんなある日、さすがにただ滑るだけは飽きてきたのか、自分なりに工夫をするようになった。
そして、考えたのが・・・


どっすーん

すっごい音がして、慌てて行ってみると何と、壁に大きな穴が・・・

私 「えっ・・・(汗)」

以前から我が家にあった、スケートボードを押し入れから引っ張り出し、それに乗ったまま滑り台を滑ったのでした。

私 「あっらららぁ・・・まっ、いっかぁ・・・。」

夜主人が帰って来て。

主人 「うわっ!どうしたと!この穴!?」

私 「ん?真弘がちょっとね・・・。」

私 「最近の壁はもろいねっ。」

主人 「いやっ・・そうゆう問題じゃなくて・・」

私 「滑り台の向き変えた方がいいねっ。」

主人 「だからぁ・・そうじゃなくって・・せんように注意せなやろ!」

私 「じゃあ何で買ってきたとよぉ!」

主人 「だって、まさかスケートボードで滑るやら思わんもん・・。普通滑り台は尻で滑るもんやろ!?」

私 「・・・。はいはい、わかりましたっ!」

次の日・・・

私は滑り台の向きを変えた・・・。

紹介状を持って、こども病院に行った。
先生が、30分ほど真弘といろんなやりとりをした後に、何も聞かされることなく1通の紹介状を手渡された。

(また・・・?)

封筒の表には、【心身障害者福祉センター】と、書かれてあった。
名前さえ初めて聞く私に、ここがどういう所なのかわかるはずもなく、とにかく言われたとおり、真弘を連れて行く事にした。

係りの人に案内された部屋に入ってみると、真弘と同じ位の子供と、お母さんたちが何やら楽しそうに遊んでいる・・・。
でも、ようく見ると、何か様子がおかしい・・・。

一通り見学したあと、担任の指導員と言う人と面談をした。
サザンの原坊にそっくりな人だった。

原坊と話をしていくうちに、初めて知った。

《自閉傾向を伴う知的障害児》

そしてここは、就学前の障害児が母親と一緒に通って訓練をする場所・・・。

それからは、どうやって家まで帰ったのか、全く記憶がなく玄関に入った瞬間にしゃがみ込んで、わんわんと声をあげて泣いた。

どのくらい時間がたっただろう気が付くと、顔がKO負けしたボクサーのように腫れ上がっていた。

(どうしてこんな事になったんだろう・・・?)
(何が原因なんだろう・・・?)
(薬も飲まなかった・・タバコもやめていた・・)

いくら考えても理由がわからず、ただボーっと無邪気に遊んでいる真弘の変わった行動を眺めていた。

そして、この日から世にも奇妙な本当にあった、ある意味こわ~い話しの始まり始まり・・・なのです。




変わった子・・・と、思いつつも育児に追われ、バタバタとしているうちに、2年半が過ぎました。
この頃私にはとても気になっていたことがありました。

それは、2才半になっても、全く言葉が出ないのです。

「まさひろ、これ誰?お母さん・・・お・か・あ・さ・ん。ほら、言ってごらん」

マサ 「・・・・」

でも、定期検診に行っても何も言われなかったし、育児経験のある人に聞いても「男の子は遅いから」・・・としか言われず、そんなものかなぁ・・・と、軽く考えていたある日、いつものように真弘は流し台の前に椅子を持って来て、周りをビチョビチョにしながら水遊びを始めました。

暫くたってから、なにげなく台所を覗くと、コップを持ってゴクゴクと何かを飲んでいました。

私はその時、荒い桶の中の漂白剤が入った水をすくって飲んだのでは・・・と、とっさに思ってしまったんです。

何でそう思ったのかわかりません。でも、とにかくその時は、そう思ってしまったんです。
私は急いで近くの小児科に連れて行きました。

先生 「お腹とか、のど痛くない?」 「吐き気とかある?」
マサ 「・・・・」
  「・・あのぅ・・この子、まだ言葉が喋れないんです・・・」
先生 「えっ!? お母さん! 漂白剤飲んだ事よりそっちの方が大変ですよ!」

(漂白剤飲んだことよりも大変な事って何なんだよぉ・・!?)

先生 「今から紹介状を書きますから、それを持ってこども病院に行って下さい。なるべく早いうちに行って下さいね。」
 「あ・あのぅ・・漂白剤・・・」
先生「じゃあ、呼ばれるまで待合室で待っていてください。」
 「!(ムカッ!)」
首の座りも、はいはいも順調で、ミルクも人一倍飲み何の心配もなく育っているかのように見えた真弘でした。

私は、どこの母親もするように、絵本やおもちゃを買い与えたり、天気の良い日は公園にも連れて行ったりしました。

ところが、絵本を見せても全く興味を示さず、電話帳や新聞の広告を好んで見たり・・・。
おもちゃを見せても、それより水遊びが好きで、時間さえあれば台所で水遊びをしたり・・・。
公園に連れて行っても、決して子供達の中には入らず、私の側でただじっと遠くを眺めていました。

我が家では、朝一番に新聞を見るのは、私でも主人でもなく真弘でした。

そして、そんな我が子を私はただ『変わった子』と、笑って見ていたのです。
昭和59年10月19日。深夜お腹に鈍痛を感じて目を覚ましました。
私にはこれが陣痛だとすぐにわかりました。

慌てて、たまっていた流し台の食器を洗ったり・・・
ほったらかしにしていた洗濯物を畳んだり・・・

家の中を一通り片付けて主人を起こし、病院に行きました。

私より、主人の方が焦っているのが傍にいてよくわかりました。

主人 「もう!ガラスがくもって、前がよく見えん!」
私  「・・・?」

くもっていたのは、フロントガラスではなく、主人のメガネでした

初産にもかかわらず、それから3時間後、大きな産声と供に、男の子が生まれました。

私達夫婦にとって、初めての子供でした。
姓名判断の本など買って、主人と二人最高の名前を付け、【真弘】と、命名しました

この子は、世界で一番幸せになる・・・はずでした・・・。(続きはまた明日。)